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2014年1月12日日曜日

批判的議論

怒らず・焦らず・諦めず・謙虚に

他人の人格を傷つけない方法。これは言い方の問題なのかな。

母の中で 私≒悪 という構図があるらしい。


悪口流布の恐れによる更なる問題の深化などを危惧してのことだと。

私も困惑する回答があったりします。私の文章も分かりにくい問題点は在りますが、回答者側としても分かりにくい回答は問題だと思います。しかも回答に具体性がなく、話の分からない相手には一方的に同意もなく応じないとするのはよくないと思います。あとメールの文面で短く早く終わらせたいということがみえました。

長文や分かりにくい文章は大半の方は苦手で私もその一人のようです。母は難しい話やくどい話、手紙などの長文や議論のはダメで、簡単・わかりやすく・簡潔であることに重きおおいてきます。いいことですが、如何せん内容によって簡単・難しいということについての定義が曖昧化します。理屈っぽい人間は嫌われるというのは単なる偏見のような気がします。理屈・説教・意見がダメなら一体何を話せばいいのでしょうと思います。理屈っぽく批判する人がダメならテレビや雑誌に二出てくる人はどうなんだろうと思います。それで嫌われるといってましたが、内容にもよるところがありますし。嫌われるも何も相手に対しての質問ができなければほとんど企業では生き残れないでしょう。確かにビジネスライクな回答は心がけますが。批判的議論=嫌われる要素の部分は認めますが、だからといって相手にも問題があるから議論になっていることを是非母にわかって欲しいものですね。別に話さない相手から私は嫌われてましたから。いいじゃないですか嫌われたって。

あと長文や手紙などで分かりにくい文章なら相手だって教養はあるでしょうし、一般社会で仕事しているなら或程度くどい書類や文章を相手にする経験はあると思います。それこそ議論もできないようでは仕事すらできないような気がします。(異論ありそうですが)

弟は【影で人の悪口・陰口・批判は言うなよ】と偉そうに逝ってますが、ご自身は自分の態度や言動に関して問題意識がないようです。がっかりですね。まあ弟も自分が言われるような問題を起こしている自覚がないのでしょう。そうやって兄である私の感情の火に油を注ぐまねをしておいて何お言ってるのでしょう。まあ自分の非は認めない。これが弟の考えの中心で問題だと思います。自己中の最たるものだと自分で思えないんでしょうね。



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